【今日の橋本語録】
〜 取る、取らないはテメエの勝手だ 〜
(「からだの設計にミスはない」より)
「私は言うことだけは言う、それをあとで取る、取らないはテメエの勝手だ、というような気持ちだな。
誰がどうしようが、何がどうなろうが、自然法則だけは変わらないんだから。
私には、自分のやったことを残そうなんていう気はないね。
ただ、本当のことはこうなんだよ、と自分で経験したことはみんなに言うけれども、それを取る、取らないは勝手なんだ。
私の云々する問題じゃないんです。みんなそれぞれが、自分のやりたいことをやっていけばいいんだ。
それが気持ちのいいことならね。まあウソかホントかやってみな、ということだ。
やってもみないでケナシてもホメても意味ないよね」
(「からだの設計にミスはない」 P76〜P77)
突然ですが二宮尊徳さんは「天の理」と「人の道」は区別しなければならないと言われていたそうです。
人の道とは人がつくったものであり、自然に行われる天理とは違うんだと。
「天の理」とは、春は生じ、秋は枯れ、火は乾いたところにつき、
水は低いところに流れるといった、昼夜運動していつまでも変わらないことだそうです。
「身体があれば、欲がある。これは天の理に他ならない。
田畑に雑草が生えるのと同じだ。堤防は崩れ、堀は埋まり、橋は老朽化する。これも天の理だ。
しかし、人道は、私欲を抑えるのを道とし、田畑の雑草を取り除くことを道とし、
堤防は築き、堀は泥をさらい、橋は架け替えることをもって道とする。
このように天理と人道とは、まったく別のものである。
だから、天理はいつまでも変わらないが、人道は一日怠れば、たちまち崩れてしまう」
(「二宮翁夜話」より)
ふむふむ、流石は二宮尊徳さん!って感じですが、橋本先生の言われてることも、これと通じるものがあるような気がします。
例えば、TV観てても、鼻クソほじってても、朝になれば太陽が昇って、夜になれば沈むわけです。
それは別に自分の責任じゃありません。
でも、その中でより良く生きていきたいなら、鼻クソばっかりほじってるわけにはいきませんよねぇ。
自ずと自分の行動にも責任が生じてくるわけです。操体で説く、最小限の自己責任は息、食、動、想。
そして、そのそれぞれに法則がある。だったら鼻クソほじってないで、そうした法則を知って実践してみなさいヨってことですよネ。
「法則を知ることで「道」に入れる。法則を知らなければ道に入れない。
自動車の運転の法則があるでしょう。運転の法則わかんねえで金出して乗せてもらえばね、目的地行かれますよ。
目的地まで行かれるけれども、自分で運転するのには自動車の運転の法則知らなくちゃ。
それには自動車の構造も知らなくちゃならんし、機能も知らなくちゃならん。
そういう道理があるってこと。ちゃんと法則がある。
その法則は誰が作ったか、自動車作った人は、法則をちゃんと知って作ったにちがいない。
自動車作った人は、右に曲がるときにはハンドルを右に回す、左のときは左に回す、と決めて作ったんです。
人間は、誰が作ったのか僕知らんけどね、神様だか、仏様だか知らんけど、とにかく作られたものだ。
そうすると、作ったときに、ただ泥持ってきて人形作るように作ったんじゃなく、ちゃんと法則があってつくられた。
その法則知らないから、みんな生きていくのにケガする」
(「地湧きの思想2」 P130)
そういうことなんですよねぇ。
でもねぇ、橋本先生が言われるように、それを取る、取らないは、ホントにテメエの勝手なんですヨ。
「ああ、なるほどそうですか」ってなっても、それをやるかやらぬかは自分次第なんですから。
やればやっただけのご褒美がもらえて、やらなければそれなりの報いがくる。
いやいや、これもきっと自然な法則ということなんですねぇ。
ワタシなんか報いが来っぱなしなんですから困ったもんです。
中谷之美
東京操体フォーラムin京都2011は8月28日(日)に開催されます。北村翰男(奈良漢方治療研究所、奈良操体の会)、三浦寛他
Sotai Forum inMadridは、9月24日、25日の二日間、マドリードにて開催致します。三浦寛他