東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

時間と空間と橋本語録 その5


【今日の橋本語録】

〜 取る、取らないはテメエの勝手だ 〜

(「からだの設計にミスはない」より)


「私は言うことだけは言う、それをあとで取る、取らないはテメエの勝手だ、というような気持ちだな。

誰がどうしようが、何がどうなろうが、自然法則だけは変わらないんだから。

私には、自分のやったことを残そうなんていう気はないね。

ただ、本当のことはこうなんだよ、と自分で経験したことはみんなに言うけれども、それを取る、取らないは勝手なんだ。

私の云々する問題じゃないんです。みんなそれぞれが、自分のやりたいことをやっていけばいいんだ。

それが気持ちのいいことならね。まあウソかホントかやってみな、ということだ。

やってもみないでケナシてもホメても意味ないよね」

(「からだの設計にミスはない」 P76〜P77)


突然ですが二宮尊徳さんは「天の理」と「人の道」は区別しなければならないと言われていたそうです。

人の道とは人がつくったものであり、自然に行われる天理とは違うんだと。

「天の理」とは、春は生じ、秋は枯れ、火は乾いたところにつき、

水は低いところに流れるといった、昼夜運動していつまでも変わらないことだそうです。


「身体があれば、欲がある。これは天の理に他ならない。

田畑に雑草が生えるのと同じだ。堤防は崩れ、堀は埋まり、橋は老朽化する。これも天の理だ。

しかし、人道は、私欲を抑えるのを道とし、田畑の雑草を取り除くことを道とし、

堤防は築き、堀は泥をさらい、橋は架け替えることをもって道とする。

このように天理と人道とは、まったく別のものである。

だから、天理はいつまでも変わらないが、人道は一日怠れば、たちまち崩れてしまう」

(「二宮翁夜話」より)


ふむふむ、流石は二宮尊徳さん!って感じですが、橋本先生の言われてることも、これと通じるものがあるような気がします。

例えば、TV観てても、鼻クソほじってても、朝になれば太陽が昇って、夜になれば沈むわけです。

それは別に自分の責任じゃありません。

でも、その中でより良く生きていきたいなら、鼻クソばっかりほじってるわけにはいきませんよねぇ。

自ずと自分の行動にも責任が生じてくるわけです。操体で説く、最小限の自己責任は息、食、動、想。

そして、そのそれぞれに法則がある。だったら鼻クソほじってないで、そうした法則を知って実践してみなさいヨってことですよネ。


「法則を知ることで「道」に入れる。法則を知らなければ道に入れない。

自動車の運転の法則があるでしょう。運転の法則わかんねえで金出して乗せてもらえばね、目的地行かれますよ。

目的地まで行かれるけれども、自分で運転するのには自動車の運転の法則知らなくちゃ。

それには自動車の構造も知らなくちゃならんし、機能も知らなくちゃならん。

そういう道理があるってこと。ちゃんと法則がある。

その法則は誰が作ったか、自動車作った人は、法則をちゃんと知って作ったにちがいない。

自動車作った人は、右に曲がるときにはハンドルを右に回す、左のときは左に回す、と決めて作ったんです。

人間は、誰が作ったのか僕知らんけどね、神様だか、仏様だか知らんけど、とにかく作られたものだ。

そうすると、作ったときに、ただ泥持ってきて人形作るように作ったんじゃなく、ちゃんと法則があってつくられた。

その法則知らないから、みんな生きていくのにケガする」

(「地湧きの思想2」 P130)


そういうことなんですよねぇ。

でもねぇ、橋本先生が言われるように、それを取る、取らないは、ホントにテメエの勝手なんですヨ。

「ああ、なるほどそうですか」ってなっても、それをやるかやらぬかは自分次第なんですから。

やればやっただけのご褒美がもらえて、やらなければそれなりの報いがくる。

いやいや、これもきっと自然な法則ということなんですねぇ。

ワタシなんか報いが来っぱなしなんですから困ったもんです。



中谷之美



東京操体フォーラムin京都2011は8月28日(日)に開催されます。北村翰男(奈良漢方治療研究所、奈良操体の会)、三浦寛

Sotai Forum inMadridは、9月24日、25日の二日間、マドリードにて開催致します。三浦寛

2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。