東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

p1*[岡村 郁生(おかむら いくお)『ききわける』

昨年、初めて体験したことがあります。
それは、お世話になった人が亡くなる瞬間に立ち会うことだったのです。

変化を怖がらなければ、拒否しなければ、不思議なことってあるんですね。(不思議ではなくなることかもしれませんが)
操体を通じ”感覚”を本気で学ぶまでは、自分の知識で考え、頭と経験で想像できる範囲を重要視したのですが、
何かが弾けて”目に見えない感覚”を本気で学ぶようになり、感覚を最優先にしていくことで、
「からだ」とは、「ききわけて」いると、何か必要なときには、何かを教えてくれるように感じ始めています。
ですから、大切なことを「からだにききわけて」・・・なにかを感じたら色々な理由をつけずに大切にします。
このときも、何となく会いに行ったほうがいい…そう感じただけでしたが、このことはかんじとれることなのかもしれません。

ともかく立ち会うことは出来たのですが、呼吸の納まり方というか、息の引きとりかた・・とは静かでした。
まるで土砂降りであった雨が上がり、虹が現れてくるかのような時にも似て、移り変わりかたの自然そのものだったのです。
その方は白血病感染症を繰り返し、多くの抗生物質が効かない手の施しようがない肺炎を併発していましたので、
それまでは非常に苦しそうな呼吸(チェーンストークス呼吸)を通していたので、本当に変な言い方ですが最期は感動しました。
出来ることを行い、生きてきて、その先にある死というのは、本当に自然なことなんだな・・と教えて頂いた感じなのです。

橋本敬三師は、「(あの世は)みんな行くんだからいいところに決まっているさァ」と語っていたそうです。
ハイ!そうなんですね。今から途轍もない財産を継承させて頂きました!ありがとうございます。
今まではなんとなく思っていたことを、実際に感覚として受け入れたのです。本当に今思いだしても有り難くて心に沁みています。

そもそもイノチを宿す権利とは、なにかといえば、それは、神性を相続されている「からだ」にあります。
元々の「からだ」は、元々いいもの。
それこそ確かな判断力として備わっている絶対基準はあります。

自分にいつもピッタリと寄りそっている「からだ」を見失ってしまうほど勿体ないことはありません。
周囲に問いかけ、周囲から入るモノに多くのイノチを費やしているのなら、ふと、一人になってみるわけです。
一人という時間ではない、時感をつくって・・・「からだにききわけて」みるのです。

何をですって?
それは、あなたのイノチの源泉を。
それは、自然法則を。それは、快適感覚を。

今、決断を迫られていることは何でしょうか。
その選択肢には、どんなことが挙げられますか。
思いつく限りの選択肢の中で、もっとも現実的なことで、愉しめること。
自分自身の「からだにききわけて」その上で納得しうることですか。

それは、いつから必要なんでしょうか。
今も、そう、たった「今」も、必要なのでしょうか。

必要の無いモノ。必要の無いもの。必要の無い物。
薄めても薄まらないのでしょうか。
その感情は。そのこだわりは。その欲求は。

それを「からだにききわけて」

背負っていなくてはならなかった縛りを脱いでいく。
磨いてみると向こうはうっすら・・感じられる。
原始感覚を磨くのに、多くのことは要らないものです。
たった一人になって感じてみるのです。

無人島に来た私にも、必要なのかどうなのか。
「ハイ、これは必要です」と。

そうなんですよね。きっとわかるんですよ、誰でも・・・有り難いことだけなんです。
わかってしまえば、そんな誘惑も、あんな迷惑も要らない。

今日はこんなところで・・ありがとうございます。


2013年4月28日 東京千駄ヶ谷津田ホーにて、春季東京操体フォーラムを開催致します。