おはようございます。
瀧澤さん一週間のブログありがとうございました。
岩手から届くきもちのよい風に変わって
今日から一週間、目に見える世界と目に見えない世界をいったりきたりしながら(笑)
寺本が担当致します。宜しくお願い致します。
今日の朝は聞き慣れない鳥の声で目が醒めました。ちょうど窓のすぐ傍で、良く響く声で伸び伸びと、五時前から鳴いていたどこぞやの鳥。実に個性的なファンファーレを堪能した朝でした。
さて、今回のテーマとしていただいた「歪み」。
最近改めて「一体、何なのだろう?」と思うようになりました。
日々更新されるこのリレーブログのなかで語られる「歪み観」。
それがそのまま、操体の「臨床観」のようにも感じられてきます。
私自身最近のブログはまた目が離せないモノとなっています。
自分自身を振り返ってみれば、まず思い浮かぶのは
「歪み」という言葉の出番自体がどうも極端に減ったことです。
いままで何気なく使っていたこの「言葉」のなかに
「良くないもの」だとか、どことなく「負の要素」だとか
余計なものが付着しているように感じるようになる。
目の前のからだに起こっている現象を口にする時に
その「ありのまんま」を表現するのに
どうも馴染まないような感じがするようになった。
代わりに、「変化」という言葉を大事にするようになる。
自分自身の口にする言葉から余計なものが自ずと消えていって
素直な、後味のいい言葉へと変化していく。
捉え方が変化することで、言葉も変化する。
操体を学んでいると実によくこういった経験に遭遇します。
「歪み」という言葉は、その典型だと感じています。