「変化」というのは、余計な味付けをしていない
「素(ス)」の言葉だなあと感じています。
からだが変化する、そのこと自体に
「良い」も「悪い」もない。
からだはむしろ、「自然法則」という目には見えない規範に則って
どこまでも素直に、生命活動を表現し続けているようにも感じられてきます。
そんな奇跡のような営みが、日々静かに身近で行なわれている
というのは、本当はスゴいことなのではないかと思います。
「息」、「食」、「動」、「想」という
自分自身と切っても切り離せない営みと
それを取りまく「環境」。
そういったものも余すところなく
あからさまに写し出している「からだ」。
余計なものを足さず
「変化」として、からだが素直に写し出しているものは
誰でもない「ワタシ」そのものなのではないか、と
思う時があります。
取り繕って、どんなに隠そうとしても
本当のところは
自分自身という「スクリーン」を介して
「ワタシ」を赤裸々に物語っているのかも知れません(笑)
もし
からだに起こっている現象のすべてを
味付けせずに、ありのまんまに「いただく」ことができたなら
そこに写し出されている「ワタシ」という「素材」のことも
曇りなく、ありのまんまに
「味わえて」いるのかも知れません。