こんにちは。
今回のブログ担当も、今日で最終日となりました。
陽が暮れるのが早いせいか、一週間が過ぎるのも、凄く早く感じる今日この頃です。
ふと、遠くから石焼き芋の移動販売車の声が聞こえてきました。
「 石や~きぃ~もぉ~ 早く来ないと行っちゃ~うよ~ 」
今日から師走、何かと慌ただしくなりますね。
今回のブログのテーマは「常識を疑う目」でした。
今回、担当初日にウィキペディアにあった哲学者・三木清氏の常識に関しての記述より、常識の上位概念として良識(りょうしき)があるという事を紹介しました。
良識ついては、それぞれの社会にそれぞれの常識があるが、あらゆる人間に共通な常識があると考えられ、それは「良識」と称することができる、との事でした。
この良識については、操体を学ぶ者として、私は凄く共感出来るものがあるのです。
創始者も、はじめは現代医学をもとに治療にあたっていた。しかし、現代医学だけでなく様々な民間療法の教えも受け、取り入れていった。そうすることで、メディアからも取材が殺到するほどの効果を上げていった。
そのなかで、創始者は様々な療法すべてに共通する根本原理に気が付いた。それは西洋医学、東洋医学、民間療法といった枠組みを超え、尚且つそれらにもつうじるものであり、生命現象の本質に迫ったものでありました。
西洋医学、東洋医学、民間療法それぞれに、病に対しての診断法、その診断した症状、疾患に対するアプローチの仕方があると思います。
しかし、操体臨床の場合は、病から診るのではなく、生命そのものから現症の元に必ずあるアンバランスを診、生命現象の写しであるからだの要求に応じたアプローチを行い、本人自身が快適感覚をききわけ、味わう事で生命そのものがバランス制御に向かう。そして結果的に他で診断された症状疾患現象も回復、回善されるのをみるのです。
ですから、生命現象の本質に目を向けず、間違った生活(生命活動)を続け、結果的に生じさせてしまった症状疾患だけを何とかしてもらおうとするのが、常識化してしまっている現代社会の人達の考え方からすれば、操体は常識的ではないかもしれない。
しかし、今の人達の考え方からは常識的でなくとも、あらゆる人達に宿る生命にとっては、共通の常識であり、良識なのであります。
常識的に不可能と思われる事も、良識から可能とさせ、快適感覚をつうじて、生命現象の本質への気づきへと導く。必ずや、心もからだもより良く変わっていくでしょう。
そうしたなかで、今の人々の想いがより良く変われば、常識もより良く変わり、より良き未来への橋渡しとなるでしょう。
一週間お付き合いいただき、ありがとうございました。
来週は畠山裕美先生の担当となります。
来週もどうぞよろしくお願いいたします。
友松 誠。