病名と証 の違いが東西医学の最も根本的な相違点であることは、先達の誰もが強調されている。
しかし、「証」を定義する事は至難である。
ここでは、めんどうな話を抜きにして「証とは治療法である」としておこう。
例えば、〇〇湯証であれば、〇〇湯を与えれば治る、という経験知が集積された学問である。また、△虚証とか̻□実証であれば、それぞれ虚実を補瀉すれば治るという技術体系である。
ところで、お叱りを覚悟の上で、漢方の臨床を究極まで要約すれば、虚実の補瀉ということになるであろう。
真気の虚を補い、邪気の実を瀉す。
正常でないものを、漢方では邪と言い、邪があるから病人なのである。
邪とは、害悪なものではなく、「牙」すなわち「くいちがい」を語源としている。正常からの「歪(ひずみ)」である。
ここで「邪」という言葉の問題点を指摘しておきたい。
邪は、外邪(侵害刺激:ストレッサー)とそれによっておこる生体の歪(ストレス)の両方に対し、厳密な区別なく使われている事が、現代の何とかしなければならない重要課題なのである。
橋本敬三は、邪(歪み)が身体を病気に導いたのだから、全身の歪みを調達することで、健康状態に戻せると考えた。
虚実の補瀉を、運動系で捉えようとした偉大な先人である。