さて、がんばらなくてもいい、と言われても、この世、娑婆ではイヤなことをしなければ生きて行けないこともあります。
私達が生きている横の世界は、因果応報ので相対的な世界(自分のやったことは、いいこともわるいこともすべて跳ね返ってくる)だから。
なんて救われているのに(がんばらなくてもいいのに)、この世では頑張ったり我慢したりしなきゃいけないの?という問題です。
畠山は2017年に東京国際仏教塾に参加し、後半の専門課程では、両親の実家の宗旨であり、なんとなく操体にご縁があり、またなんとなく惹かれる曹洞宗を選びました。
仙台でよくご縁がある、東北福祉大学は曹洞宗系の大学ですし、三軒茶屋(操体の聖地?!)のお隣は「駒澤大学」。
東京国際仏教塾 第33期(令和2年)塾生、12月から絶賛募集中です。令和2年は4月開講予定です。
2017年の冬は、一ヶ月に一回、五ヶ月、計10日という短い期間でしたが、大佐倉の勝胤寺という曹洞宗のお寺で「修行」(8割は勉強、2割が坐禅とかです)し、その後在家得度しました(戒名を頂く、私の先生、中野東禅先生曰く「プチ出家」)。アタマを丸めたりしているわけではありませんし、得度しただけなので、出家したわけではありません。
★勝胤寺(大佐倉)。曹洞宗のお寺です。
曹洞宗の開祖は、道元さんです。
まあ、曹洞宗は道元、代表作は「正法眼蔵」、永平寺、坐禅 あたりを思い出すかもしれません。
ちなみに同じ禅でも、臨済宗と曹洞宗は結構違います。
臨済宗では、坐禅は禅問答同様、悟りを得るためのものですが、曹洞宗では、ただ坐るのです。
また、臨済宗では坐禅時に壁に背中を向けて坐りますが、曹洞宗では、達磨大師が壁に向かって坐禅を組んでいたという故事から、壁に向かって坐ります。
座る時も臨済宗では座布団を二つ折りにして坐りますが、曹洞宗では、「坐蒲」という丸い座布団を使います。
実は歩く時の手の組み方(叉手:しゃしゅ)も、臨済宗と曹洞宗では違うんです。
あ、坐禅の時、お坊さんに「ぴしゃり」とやられるヘラみたいなやつがありますよね。
これは「警策」と言いますが、曹洞宗では「きょうさく」、臨済宗では「けいさく」といいます。
あ!もう一つ。作務衣です。臨済宗は紺色ですが、曹洞宗は黒です。
道元さんに話を戻しましょう。
道元禅師は、貴族の生まれです。
それも大臣筋です。
しかし、8歳の時に母を亡くし、世の無常を知るとともに、このまま成人すると、政治の世界に入らざるを得ません。そのせいもあったのか、14歳にして比叡山にて入り出家します。
そして、
仏教では「人間はもともと仏性を持ち、そのままで仏である」と言っているのに、なぜわざわざ修行して悟りを求めなければならないのか?
という疑問を抱くのです。
これは、仏教の根本をも揺るがすことで、誰も少年道元の問いに答えられなかったのです。
そこで道元さんは山を下り、最後には中国(宋)に渡り、最後に如浄禅師のもとで悟りを得るのです。
それは「仏性をもっているのになぜ修行せねばならないのか」という問い自体があべこべであり
「われわれは仏だからこそ修行ができる」
ということが真実であるということだったのです。
これは、駒居先生からも「我々は救われているのに、何故免罪符を買わなきゃならんのだ?と言って免罪符を買うのをやめるとか、教会に行かなくてもあなた自身が教会である」のようなこと(間違っていたらご指摘ください)と言って、宗教革命を起こしたのが、ルターさんでした。
ルターさんというのは、奇しくも、毎回東京操体フォーラムを開催している、「ルーテル市ヶ谷センター」の「ルーテル」さんのことなんだそうです。
というわけで、一週間、2019周期東京操体フォーラムでお話したことを振り返ってみました。
一週間ありがとうございました。
明日からは三浦寛先生の担当です。
え?
先生は原稿執筆で手が離せないので、猫チームでブログを書くそうです。