モノには自然治癒力がないかもしれない、と前日のブログで書いてみたが、
それでもモノにもいのちはある、と矛盾しているが感じてもいる。
愛着を持って、大切にしていれば
そのモノのいのち、というか
寿命のようなものは延びていくように感じられるし、
結果的に長く付き合っていくことができる。
当たり前のことではあるけれど、
こういう「手をかける」、ことは人間に与えられた大事な能力ではないかと感じる。
そして、逆もまた然り、ということを切実に感じる出来事が昨年起こった。
私は音楽が好きで、楽器も好きで、人生で一度だけ楽器を自作したことがある。
ロシア連邦の伝統楽器で「イギル」という擦弦楽器がそれだ。
同国のホーメイという喉歌には欠かせない、相棒のような楽器だ。
このイギルをホーメイを歌うにあたって、どうしても欲しくなり、
その頃、日本では容易に手に入らなかったという理由から、
当時お世話になっていたホーメイの師匠の持っているイギルの寸法をとらせてもらい、
発起して半年かけてのこぎりや彫刻刀で汗をかきながら、なんとか自作した。
汗水たらして生み出したその相棒とは、その後演奏活動を冬眠しようと思うに至るまで
ずっとともに過ごしてきた。
活動を止めて2年ほどたったある日、床の間に安置していたその相棒に
実に久しぶりに触れてみた。
すると、弦を弾くための弓の部分の紐が切れているのに気が付いた。
演奏活動をしていたときにも勿論、弦が切れたり、手入れをしなければ間に合わないことは度々あったが、そういうこととは別の異質な出来事のように感じられた。
これは、何よりも「使っていなかった」から起こったこと。
いや、それだけではすまない。
意識を向けていない、呼吸を通わせていない、
ある意味では「無視」。
そういう関わり方の、モノのいのちに与えている影響にハッとした瞬間だった。