そもそも、馬に
乗らなければ落馬しない。 馬に乗らなければ遠くに行く
ことはできない。
低いものを飛び越えるのも、高い場所に登るにも、ふ
やけた 生き方をしているのでは、失望も絶望もないけれど、極楽へ
繋がるかもしれない、静かな歓喜なる悦びも、味わえない。
昔、全身の連動性を勉強している時。
操体の醍醐味は、全身の連動性を理解し予測して導くことにある、と
考えて、連動のパターンを必死に記憶し実践していた。
そして、全身の連動性をある程度記憶し、実践学習した後のこと。
三浦理事長から、皮膚の接触による「渦状波®」を体感した。
この第3分析を学び始めた時、そのあまりにシンプルで特徴的な臨床
に、当時の私は、なかなか手をつけられなかった。
しかし、『いつかやらねばならぬ』と、その時を決め、それ以外では
臨床をし
ないと決め、修行の一環としてやり始めた。
それまでと異なり、感謝される結果もあれば、全くと言っていいほど
地味で即効性も薄いと言われたり、患者の理解は様々であった。
一時は、少しずつ少しずつ積
み上げてきた石が、最悪の事態になって しまったのでは、とワタシは焦った。
だが、このようなことを思ってい
る間はまだ最悪では無いのだろう。
土壇場で、見出せなかったエネルギーを奮い起こしたところにこそ、
生かされ、生きているその波動を修めるチャンスは秘められていた。
最大のピンチと思っている時こそ、自分の存在的要素を一切捨てる。 患者の一言一句に囚われることなく、「からだ」の要求に適うこと。
そして逆転満塁ホームランの如き結果も、現象化されて当然となる。
操体は、繋がっていることを感じること。
何と繋がるかが問題で、それこそ、修業となる理由なのだ。