おはようございます。
「情報の海」という言葉を聞くようになって久しい。
私が子供の頃の昭和4、50年代というのは、インターネットなどなく一家に一台テレビがあるくらいで、その他に詳しく情報を得ようとすれば新聞や雑誌、専門誌を購入するしかなかった。
しかし、今はスマホ一つあれば大抵の情報が得られる。
随分と便利になったと感じるが、あまりにも情報が膨大になりすぎて、その情報の海に溺れていると感じる時もある。
何か資料を探している時など、直ぐに「これ」というものにたどり着けずに、さんざん読んだ挙句に探している内容とは別物と気づく、それを何度も繰り返していると随分と消耗させられた気分になる。
また、ネットの情報にはフェイクなものもあり、真贋の見極めが大切。
その真贋に見極めは、頭の知識や思考だけでは不十分だと思う。
誰もが考えるだけで生きているのではなく、感じて生きているという土台があって考えが成り立っているのだから。
からだの感覚というのは無視できない。
これは、骨董品などの目利きにもつうじると思うが、鑑定人というのは目を含め感覚器がそれに触れた瞬間に、企みがあるものは違和感を感じていると思う。
それの理屈なり説明は、後から本物と比較対象した考えなのであり、最初に受けた感覚の方が優先されていると思う。
しかし、まわりで見ている人からすれば、理屈のウンチクの方が興味をそそられる。
興味をそそられて、知識だけで同じような事をしようとすれば失敗する。
そんな単純で生易しいものではない。
しかし、単純で生易しいものでなくとも、シンプルではある。
自分が受けたからだの感覚を受け入れるか、受け入れないかだけなのだから。
もっと、からだというものを尊重して良いし、もっと信頼すべきだと思う。
からだには、無意識の状態でも生命を生かす力、活かす力が宿っている。
また、人類共通の良心につうじるものも宿っているようにも感じる。
ネットの情報には、フェイクや自己利益に向けて他人を騙そうとするものもある。
頭の知識の独断ではなく、からだ(良心)にききわけ、真贋を確認するのも大切だと思う。
情報の海を航海する羅針盤にも、からだにききわけるという姿勢が必要。