久慈にいるときは電車に乗る機会はほとんどありませんが、東京に来たときは電車に乗ります。
いつだったか、始発の電車に乗ったとき、車内の座席はまだガラガラでしたが、一車両中ほとんどの方が七人掛けの席の端っこに座っていました。
隣の人と接することを考えると、端っこに座りたくなる気持ちはなんとなくわかるのですが、そのうちの七、八割くらいの方が左端に座っており、本人が意識してその位置を選んでいるのか、あるいは無意識にその位置を選んでいるのかは分かりませんが印象に残る光景でした。
話は変わりますが、重心の学習が「からだの学習」の中心になり、学習する意味も随分と変わってきているように感じています。
これまでは、立ち方の学習にしても、うごきや呼吸の学習にしても、型のようなものを師から教わり、それを意識的に繰り返し学習することで無意識的にできるよう身につけてきました。
また、息、食、動、想の営みも、自分の要求を満たす営みとしてだけではなく、からだの要求を満たす営みでもあるように、「からだにききわける」という感覚の学習も生活の中で行ってきました。
最近感じるのはこういった身につけていく「からだの学習」は、意識による「おもての学習」なのではないかということです。
それに対し、今自分たちが学んでいる「からだの学習」は意識づけによる「うらの学習」。
「うらの学習」は立ち方にしても、うごきや呼吸にしても、ちょっとした意識づけによって無意識的にからだがしてくれていることや空間との関わりに気づいていく学習。
その気づきによって、点と点は線でつながり、法則性として感じられるようになってくる。
法則性はやり方として覚えるのではなく、からだにとっても、自分にとっても「快」だと感じられる確かな実感の中で気づいていくもの。
そのような実感は意識をからだの内部にとどめるだけでなく、からだの外部にまで解放してくれる。
もしかしたら、はじめに書いたようなことも本人の気づかないところでこういったことにつながっているのかもしれません。
2024年春季東京操体フォーラム開催致します。