操体臨床でみているものは、症状・疾患を生みだしている火元であり、さらにその火元を生みだしている火種です。
その火種とは何を指し、そもそも、なぜ火種は生まれるのでしょうか。
アプローチ以前に、その問いにつながる目線と意識をもつことは必要です。
例えば、歩くときや靴を履くときに踏み出す足、荷物に手を伸ばすときの手、話しているときのジェスチャーなどといった何気ない動作。
また、わたしたちが指導するにあたって大切にしている「立ち」の作法。
こういったうごきの中で、ゆるむところはゆるんでいるのか、のびるところはのびているのか、浮くところは浮いているのか、接するところは接しているのか。
つまり、「自分」のうごきになっているのか、「からだ」のうごきになっているのか、ということも火種につながってきます。
臨床の変化としてみているのは、いかに「自分」から「からだ」へのスイッチが入り、「からだ」のうごきになっているかどうか。
それは、正当なからだの使い方にかなっているかどうか、ということでもあります。
こういった変化も「息がしやすい」という感覚と同様に、「からだがききわけている快」として、「自分」にとっても「快」であると感じられてくるものです。
臨床空間においても、生活空間においても、基準は「からだがききわけている快」であること。
それが基準となれば、臨床空間と生活空間を分ける必要はなくなり、からだがききわけている健康空間として捉えられるようになってくると感じています。