楽への問いかけは、操者の指示によって、管理されていることがわかってきた。
楽への問いかけにおいては、それでよかったのだが、快のききわけについては、間に合わない。快のききわけの中では、操者の決めつけ(マニュアル通りの指示)は、リスクであることを知る。その行程の内容、問いかけを、改めて変えていく必要があったのだ。
らくか、つらいかという問いかけの鋳型(イガタ)に、快の問いかけがおさまるわけがない。快の問いかけがおさまる鋳型を体系化していくことが求められていることが、はっきり理解できたのである(快の器には、らくはスッポリとおさまるが、らくの器に快はおさまらない、ということなのだ)。
「楽」と「快」。からだはどちらを選択し、要求してくるのかである。操者はその認識をきちんと整理し、確認しておく必要がある。その認識がないようでは、「快」のステージに入ることはできない。
からだの、その選択のききわけは、わかってしまえば簡単でした。被験者にキーワードを与えてみるのです。「からだにききわけて」が、そのキーワードです。
「からだにききわけて、教えて下さい」・・・と、この問いかけによって、被験者の意識にスイッチが入り、「楽」と「快」の分別が可能になるのです。このキーワードをとおしてみると、からだが選択し、要求してくる感覚がみえてきます。からだは快を選択し、要求してきます。
なぜですか?
からだには楽という識別コードがないのです。ですから、楽に対して反応できないのです。ですから、「らくかつらい」かの問いかけ(第1分析)においては、被験者本人に指示を与えるか、確認するかで「からだの要求感覚」をききわける、とうい問いかけが、欠落しているのです。
楽からステップして次なる快のステージは、本人の要求を満たすことではなく、まづ、からだの要求感覚をききわけ、満たしてあげることなのです。そもそも、この「楽」という感覚は、人間だけが勝ちとった、特殊な感覚のようです(勝ちとった、というより身につけてしまった特殊な感覚)、自然界には存在しない、自在するものは、快だということ、この快とは、バランス感覚、つまり調和するということです。
ついでですが「欲」も自然界には存在しません。4つのバル「バルの戒め」ですネ。「頑張る」「欲ばる」「いばる」「しばる」です。無いものを身につけてしまうと、対立をよび、執着し、迷いを生じます。
先日、4名の合同レッスンがありましたが、実行委員の山野氏が、黒板に
カンノンサマ → 観自在 → 観世音菩薩 → 観自在菩薩 → 施無畏者(おそれることなきをほどこす)→ 快(全てはこれ快なり、楽ごとじゃない)
これは仏道の教えを説いているのですが、「おまえたち、こんなこともわからづにいきているのか、バカモン!!カーツじゃ!!」と天界から説教されているようですネ。