東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

自然の法則にみる「快」と「楽」(4日目)

『動』の快と楽について
操体では「正しいからだの動き」とか「間違ったからだの動き」といった言葉を使わないで、「自然な動き」とか「不自然な動き」といった言葉の表現をしている。自然な動きを突き詰めていくと、からだの中心である腰から全身を協調させて支えており、末端から全身へ連動させた動きのことである。いわば自然に即した無理のない動きになっている。この自然な動きというのは本来、無意識になされる日常の起居動作に見られる。立つ、座る、歩く、道具を使う、寝るといった無理のない楽な姿勢や動きのことだ。楽な動きは苦痛のない動きではあるが、それ以上でも、それ以下でもない。ただ楽なのである。だが、「癖」という生活習慣から緊張や苦痛を伴う無理な姿勢や運動が発生してくると、それがからだにとって不自然な動きや姿勢をつくりだすことになってくる。こうなってしまうと、からだの良能作用がどのように機能するのか、ひとつはからだの歪みという形をとり、ひとつには快・不快の原始感覚をもって発信している。この内、不快は、からだが否定を訴える意思表示であり、快こそが元に戻る招待状なのである。
これを味方につけているのが操体だ。その操体には「般若身経」という動きのエクササイズがある。これはまず立位の姿勢から入るのであるが、この二本足で立つというのは難易度の高い姿勢である。直立二足で立つということは、人類の祖先が古代の水中生物から進化の道をたどり、四足の陸上生物を経て最後にたどり着いた進化の最終段階だと言われている。地球重力に抗して立ち上がり、二本足でバランスをとりながら立つというのはかなり高度な技であるのは確かなことだ。般若身経でいう自然な立ち姿は禅の方でいう「立禅」とほぼ同じものだ。禅では立つことによって気力、体力が養われ、心とからだが充実すると伝えられている。
この立ち方に少し触れてみると、まず、自然に楽に立ってみる。両足は腰幅程度に平行に開き、膝を緩めて背筋は頭頂部が上から釣られているように伸ばす。こうすると、目線は自然に正面の一点に据わる。このようにして立てば、自然に背筋が伸びた姿勢になり、呼吸も滑らかとなって心も落ち着いてくる。この状態はからだの中心に垂直軸を生み出し、重心が下腹部の丹田から、さらに正中線の下部に沈んでいく。このとき垂直の体軸に心をおくようにする。これに対して不自然な立ち方の場合であるが、猫背に近い姿勢になると、胸はすぼんで、背中は丸まり、お腹が張り出して、腰は後ろに引いた状態になり、目線はやや下向きに落ち、重心も踵よりにかかる。また、逆に反り身に近い姿勢では、胸が開いて腰が反り、内臓も引き上がって、腹が引き締まった姿勢になると、重心はつま先の方へかかり、目線はやや上向きになる。日本舞踊では特にこの立ち姿が重視されていて、熟達した名人になると、立ち姿それ自体が「美」になっている。「立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花」といわれる「立てば芍薬」とはこのことである。般若身経では、まず、はじめに立つことから教えて、それから動かし方に入っていくのは真にマトを得たやり方だ。
たとえば立ったままの姿勢からズボンをはくときに、まず片足に重心をかけてバランスをとり、もう一方の足を上げて持っているズボンの足を通す穴に足先を入れて膝を伸ばす。次にズボンに入れた足に重心を移し、片足でバランスをとり、もう一方の片足を同じようにズボンに入れて伸ばす動きになる。こんな動きにも難なくスムースに行なえる場合と、足を引っ掛けて尻もちをついてしまうこともあるだろう。こういった日常動作の中では自然な動きと不自然な動きが必ず存在している。一度、自分の動きを意識的に捉えてみてはいかがだろうか。
明日は「皮膚」の快と楽について



2011年秋季東京操体フォーラムは11月6日(日)、東京千駄ヶ谷津田ホールにて開催予定です。