お正月とは一月七日までという説もある。
私は三ヶ日までと思っていたので、調べてみると「松の内」というのがあって、
関東では大正月の七日まで、さらに関西では十五日まで小正月というらしい。
それにしても、待ち望んでいた21世紀になり、はや十二年である。
昨年のような自然の力に戸惑いながらも年を越せば、あと355日でお正月は来る。
そう思えば、寒さに向かう自然の流れにも安堵できるかもしれない。
私も含め、良き未来に進んでいることを確信しながら、日々感謝したいものである。
一般的に言えば、「しあわせ」とは個人所有の感覚である。
私の考えで言えば、個人的な感覚だけではない、森羅万象の大きな流れに伴う感覚にも感じている。
ただし、操体を学んでいなければ、このような思考はしていないだろう。
”一般常識の枠には収まらない”学び。それが操体なのだから。
だからこそ私にとって操体とは、ズバリ「イノチを学ぶこと」に繋がってしまう。
もっと言えば、私たちを生かしているそのものに繋がってくるのだ。
例えば、生まれた頃に意識を戻してみたい。
そこには、親との出会いがある。
いろいろなところへ連れて行ってもらったことを思い出す。
初めての環境は新鮮であり、味わったことのない感覚をその都度経験している。
初めての体験とは、「自分の中にあって一番遠くにある大切な記憶」に繋がっている。
それは、自分だけの経験ではなく、産み育ててくれた根本の連なりでもあり、
与えられた五感と同じように共有できる。自然法則を通じ味わえる私たちの財産となる。
咲き誇る花は、散るときの未練や言い訳などしない。
花は開く、咲いて散るから咲くのではなく、人に見てもらう為に咲くのでもない。
本来は自然の造形物である人間も同じだ。
生まれてくるまえは記憶がない。
しかし、生まれてすぐあるものを大切にしていくことは、操体に繋がっていく。
あの太閤秀吉も、
「起きて半畳、寝て一畳、天下取っても二合半」と言葉を残しているのである。
人間は、起きる寝る動作に半畳、就寝する時は一畳分の面積があれば十分に足りる。
そして、一日二合半の飯があれば腹一杯になるのだから、それ以上を求めても、一人では消化不良を起こす、という意味がある。
天下人となった秀吉は、黄金の茶室に客を招き豪華絢爛に過ごしていたと思うが、最後には上記の言葉を残しており、
ここにも「足を知る」という意識を感じるだろう。
意味のないことは人の設計にはない。
例えばあなたの場合、寝ている時間をどのように捉えているのだろうか。
私も寝ている時はほとんど記憶がなかった。(今は繋がってきた)
寝ているときにもあるものを大切に学ぶことは、操体に繋がっているようだ。
今日はこんなところで・・・ありがとうございます。