おはようございます。
常識を構築しているのは我々大人たちだと思います。
生まれたばかりの赤ん坊に常識は通用しない。だから、親をはじめ家族、まわりの大人たちが社会生活も営めるよう教育しながら育てていく。
大人の役割は重要だ。しかし、その大人たちの常識は正しいとは限らない。かといって正しくないという訳でもない。
絶対的ではないから、より良くしていかなければならない。
温古堂先生語録には
「原始感覚、気持ち良いか悪いかがわかるから有難い」
「動物は学問しない。しかし人間は理屈ばかり言っている。知識で判断するから、間違う」とある。
常識も、その知識だけでは間違う。正しい正しくないではなく、間違う。
誰もが、時間・空間の間とのかかわりをもっているが、その間違いが時として重大な問題につながることもある。
間違いではなく、間に合うようにするには、感覚をききわけるという事が肝要となる。
所変われば常識は変わるし、時代によっても変わる。その常識が、常識として通用する時空には限りがある。
他で通用している常識をそのまま、今居る所にもってきても、知識だけでは間違う事があるし、他で通用している常識を理解することも難しいし、軋轢も生まれるだろう。
何をするにしても感覚が伴っているのだから、それを隅に追いやらず、ききわける。
大人になって年を重ねる程、それが疎かになりがちだ。
ややもすると、間違った古い常識を若年者に押しつけるような事もしてしまう。
大人の良識とか、良識ある大人という言葉をたまに聞くが、その良識には感覚をききわける事が必要。
からだにききわける、良心にききわける。
その良識から常識を、より良く覆していく。そしてつなげていく。