多様性に富んだ自然の中に、生命の息吹を感じる。
多元性を感じていた少年の記憶、「遠の記憶」を辿っていく。
もう今から30年以上も前に、祖母と山菜取りに行った事を思い出す。
人通りのない道を外れて山の中腹に入る、決まった場所に生える山菜。
自然故に生える山菜、来年に採りたいから少し残すのが正解ではなく、
そこにある自然環境を、来年まで維持して守っているかどうかが大切。
私が昔、連れて行ってもらった場所を記憶を頼りに久しぶりに訪ねる。
するとそこは、日本の原風景は消え、見事に宅地造成されていた。
野山を駆けずり回り、木の実をかじり、花の蜜を吸い、里山は宝の山。
あの頃の記憶をどうしたら息子に伝えられるのだろうか・・・。
山の新緑にむせ返るような香りを鼻腔にしたため、走りまわって、祖母
が摘む、家族分だけの山菜を摘み終わるのを待つ。
山から湧き出ている冷たい小川のせせらぎに感動し、熱い顔に浴びせる。
森があり、川があり、水をいつでも飲める。この場所なら生きていける。
遥か昔の祖先が辿ってきた経験は、幼なき心には十分に残っているのだ。
そこに喜びは蘇り、触れている自然に心動かされ、意識は変化していく。
皮膚に伝わる普段は眠る太古の記憶が、「からだ」の奥から覚醒する。
理屈ではなく、五感だけでもなく、味わえるし、感じるからアリガタイ。
時に自然は、人工物に混じることは難しく、生命の危機を呈する。
多様性のなか、多元性に結ばれていく愛は、そこにあるのだろうか?
植物と動物と微生物との共生を考えていく必要性もそこに生じている。
自然と共生する。
多様性の中に、多元性を観る。
真性粘菌が神経を全く持たず、完全な自律分散制御を示すが如く・・・。
共生するためには、どんな知識を持ち、どんな行動をとればいいのか。
「からだ」に尋ね、「からだ」にききわけ、「からだ」で受け取る。
今日はこんなところで、明日に続きを書きたいと思いますッ。