今、近所の公園や広場はガラガラだ。こんなときは、誰かとのつながりよりも、自分のからだとか、遊び場という空間とつながってみるのもいい。
誰もいないときを見計らって、子供と一緒に出掛けてみる。草っぱらの斜面をかけたり、濡れて滑りやすくなった苔の生えた置き石を渡ったり、背の低い木の間をくぐったり、木登りしていると、「からだの使い方、動かし方」なんて微塵も考えていない自分がいる。たまに、足の裏から伝わる感触を感じるくらいで、ただ夢中で今を愉しんでいる。
ひっかかったり、滑ったり、転んだりしている子供を見ていると、環境という空間が「からだの使い方、動かし方」を教えてくれているようにも感じられる。
「からだ」のデフォルトということをここ何年か考えていた。
一時は純粋、無垢な存在として、僕らが大切にしている原始感覚を体現しているのは子供だろうと、それを減点せずにどうやって大人まで持っていくか、そんなふうに考えていた時期もあった。その考えだと、子供に回帰することが目標になってしまう。
けれども、「からだ」には、大人になるにつれて増えていくもの、豊かになっていくものもある。それはなぜなのか、今はまだ言葉にできないけれど、感じられることはある。
からだの内側と外の世界をつなげる窓口で感じてみると、
息したり、座ったり、ハイハイしたり、立ったり、歩いたり、何かを感じ、何かを思い、何かを考え、他者や社会とつながることでさえ、目に見えないけれど、常に影響を受けているちょうどいい力によって成り立っているのかもしれず、それを感じることを育んでいけるのが大人になるということで、そんなふうに「からだ」」はできているのかもしれないと思えてくる。
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