以前から不思議に思っていることがある。
この場をお借りしても度々言葉にしてみていることでもあるが、例えば身近なもの、何でもいい。
その対象に対して、「手をかける(手間をかける)」ということをしたとする。
すると、その前と後とで、感じられるものが変化していることに気が付かないだろうか。そんなことは当たり前でしょ、と思う人も多いだろうけれど、これが不思議で仕方がない。
僅かかもしれないけれども、何とも言葉にならない変化が起こることが、自分にとっては無性に興味深く面白い。
実際に行動を起こす前に、そのような結果を想像しようとしてみても、毎回たどり着くことはできない。感覚は本来、想像するものではないのではないかと思う。
私は昔から根が面倒くさがりなので、操体から教えてもらっている「実際にやってみなければ、味わえない」ということを毎度のこと思い知らされている。
「手」というのは、良い関わり方も、良くない関わり方も担うことができる魔法のツールだ。
手間をかける、手入れをするという時の「手」は、その行為を通じて何かを宿らせるような気がする。宿った何かは、説明しようとすると、「何となく」としか言いようのないものが多い。けれど、確かに何かが変化したと思える類のものでもあると思う。
今回のテーマ「般若身経」は、からだにとって「手入れ」のようなものでもある。
色々な側面が在って、自身のからだに対して、手間をかける営みにも繋がっているというのは面白い。
からだから感じられる「何となく」の変化が、無性にいとおしく感じられてくることがあったりする。そんなことも、やってみて初めて感じられることである。