ブロックとブロックの間にある継ぎ目、畳の縁、廊下の金属部分を
踏まないように徹底する理由を思い出す、小学校高学年の頃でした。
なぜ、こんなことをしているのだろう、そう思いつつやめられない。
反省はするけれども、後悔をせずに生きていきたい。
そう願っていてようやく実行できるようになった頃、意味のないこと
に自分を縛り付けていた理由も納得し、その強迫観念も消えました。
なにしろ小さい頃、祖母に悪いことをしていて見つかってしまうと、
すぐに「お天道様が見ているのよ」と叱られました。
今でこそわかることは、この「お天道様は見ている」意味ですね。
それも、目に見えなくとも意識できているかどうか、と捉えること。
結果至高主義ではなくて、経過を大切に生きていくこと。
生まれ逝くなるまでのプロセス、絶えず肯定しながら生きるように。
お天道様は、とてつもない力として存在している。
その存在を意識すると、ワタシ自身のような人間も謙虚になれる。
お借りして大切に育む「からだ」を通し、大きな力を持つのも可能。
このことを感じる理由、全てにおいて操体の学びは繋がるのです。
わかったことは、「生かされて生きている」その実感にあります。
お天道様に恥じぬよう、学問として操体につながるように生きること。
この宣誓は、私自身にとっては最高のセルフケアなのです。
それでは、一週間のお付き合いどうも有難うございました。
明日からは、日下さんの登場です。お愉しみに!