このブログの場で何度か振り返ってきたことではありますが、私が操体(操体法)に興味を抱いたのは、それまで20数年生きてきて、いまいち自分の体に対して実感が持てていない、よくわかっていないという漠然とした想いがあったからでした。
20歳代を後半に迎える頃、その当時はお芝居をしている仲間や演奏家の仲間と活動を共にすることが多く、彼らの身体に対しての向き合い方や、滲み出る身体性にどこか羨ましさを感じることも多かった、そんなことを思い出します。
身体を使う活動をしているのに、やってもやっても、何となく虚しい。
その虚しさは、活動後の疲労感や、後味として体にとって無理をしている感じが拭えない感触が残ったり、また結果的に慢性的にどこかしらに不調を抱えていたりと、色々な現れとして感じていたことでした。
ずっとこのままでは、いられない。その空虚な感触を埋めていくのに、何かはまるものはないだろうかと思っていたところで、尊敬する音楽家の方に何気なく相談し、紹介していただいたのが操体(操体法)でした。
その当時と、今とで変わったこと。
「体(身体)」は「からだ」であったこと。
思っていた以上に、からだは生命観に溢れていたこと。
自分と自分自身のからだとのコミュニケーションは、
羨む必要なんてないほどに、誰しもに宿っている感覚の世界だったこと。
そういうことを知ったり、実際に感じたり、考えたりする。
そのきっかけを伝えていただいたことが、
自分にとっては、とても大きい出来事だったように感じます。
からだのことに興味があって、もう少しそばに、と感じていたら
操体がそのきっかけになるのではと思います。