からだが教えてくれること。
操体を通して受け取ることのできる、様々な気付き。
こういうことは、何年学ぶことを続けていても尽きることがなく、
逆に、よりシンプルに、また新鮮な情報として学習の機会となる。
そういう循環のなか、脈々と継承されてきた操体、そして操体法。
この、からだから学ばせていただけることや「気付き」と呼んでいることは
「当たり前」だと感じていたことのなかにある。続ければ続けるほどに、その想いは強くなります。
当たり前のことが、当たり前でなくなった時というのは、毎回、驚きと、まだ触れられずに目覚めを待っていた学ぶことの意欲がくすぐられるような悦びを感じます。
気付かなかったら、そのまま。
当たり前のこととして、生命の不思議は静かに営まれ続けていくだけ。
それも素敵なことですが、
無数の気付かれていない生命のリズムや流れについて、
からだからいただける「情報」を、一番の参考文献として、学ばせていただく。
自分が意識できている認識の、それ以外の世界で営まれている生命感覚の世界について、
まずは、受け取ってみて、味わってみる。
理解するのは、あとで大丈夫。
ゆっくり、少しずつ。例えば、その味わったことを言葉として表現できたとしたら、どんなに重要と言われている情報より、その人にとって大切な「生命由来の情報」に立ち会った瞬間なのではないかと感じています。
操体はそういう場となる学問だと思うのです。
一週間のお付き合いありがとうございました。
明日から友松実行委員の投稿がはじまります。
どうぞ、おたのしみに。