散歩の度に目にしていたスギナの水滴のつき方は日毎に変化していました。
通常水気孔から水蒸気として排出される水分は、大気の温度や湿度の変化に対応して、気体から液体へと状態を変え、その大きさやつき方もその時々で様変わりする。
朝を迎えたときに見せてくれる生命現象の輝きは、大気という環境の変化に対応している輝きでもあったのです。
「その場から動いているから動いている」のではなく、たとえ、その場から動いていなくても、「環境の変化に適応し続けているからうごいている」、と素直に感じられる。
環境と共に表現されていることには理由がある。
変わり続ける生命にとっての再現性とはなんだろう。
「からだの学習」をとおして、足下の生命に目をやりながら考えていたこと。
変わり続ける中で、変わらないこと。
継続した「からだの学習」で原始感覚をとおすなら、今感じられることはあります。
生命のベクトルから見れば、環境との関わりに終わりはないし、共生の中で個を維持しながら種を維持することはこれからも連鎖していく。
地に根を張り、天に枝を伸ばし、日光を受けて、大気の変化に対応しているスギナの生命活動からも、目に見えることの背後で再現されていることは感じられるのです。
どのような環境に生かされているのか、誰の視点でどこにピントを合わせるかで、目に見えることも、感じられることも変わってくる。
個人の選択を越えて、生命として有難くいただいていること。
「からだ」はそのようなことをいただいているから、それが現れるつくりが表現されてくる。
操体においても、「こう操らなければいけない」という縛りから解放された自由な「うごき」によって「つくり」が表現されてくる。
それは決して自分勝手な「我」の「うごき」ではないのです。