「からだ」は常に生命活動のリズムを営んでいる。
そこに「わたし」の生活リズムが交差していく。
わたしが奏でた、時にノイズ交じりの日々の旋律を、からだの方でうまいこと耳障りでない状態にバランスをとってくれているようなイメージがわいてくる。
「耳障りでない」という表現は、生活を支障なく送ることのできるからだで常にいてくれている、といったイメージだ。
「自己責任」というけれども、
これは実は一番大変なところの責任を、からだの方に任せきりで、
調整役を押し付けているようなものかもしれないと思う。
一方通行の関係では、からだとの関係性も、おさまりがつかなくなってきても自然なことだといえる。
からだがききわけているリズムを感じていると、
自(おの)ずと表現されてくるものがあり、
それがわたしのリズムであった。
こういった瞬間があってもいい。
行きつ、戻りつ、手探りながらも、からだとわたしとの信頼関係が生まれていく。
自律可能な生命の営みが、その先に見えてくるように感じる。