わたしにとっての健康、からだにとっての健康。
今回の春季フォーラムではこのことをテーマにタスクで発表の機会をいただいた。
当日に向けてはなしあいを重ねる中で、
「わたし」が「主語」の視点から、「からだ」が「主語」の話へと膨らんでいくのを感じていた。
言い方を変えれば「わたし」というものが消えていくようなイメージがそこにあった。
「わたしにとっての健康」と「からだにとっての健康」が、別々のものではなく、営みとして重なり合っていくスガタが連想された。
そして、フォーラム当日。
今回も、流れがその場で生まれて、展開・発酵するようなうねりのなかで、
先の健康観のイメージに、またひとつ拡がりをいただいたようなきもちになった。
それは、三浦実行委員長の「健康維持増進」の話を伺っていて、生まれた拡がりだった。
正直なところ、からだにとっての健康を考えるうえで、
「わたし・自分・自我」
といったようなそれぞれのものは、できるだけ薄まっていった方がいい、消えていった方がいい、そんなお邪魔な存在なのではないかと感じていた。
なぜならば、からだの方では、常に、わたしの生き方の帳尻合わせを黙ってしてくれているような印象があったからだ。
健康ということばのイメージがあり、「健康維持」をしていくためには、からだにとっての余計なことを、日常生活のなかで、できるだけしない。からだにとっての負担を減らしていく。その為にすべきことはなんだろうかという問いかけのひとつの答えだった。
しかし、フォーラムを終えて、またもうひとつのイメージが膨らんでいる。それは、「健康維持増進」ということばをどうのように捉えるかである。操体を学んでいる人であれば、必ず触れるこのことばが目指しているものは一体なんなのか。そのことに興味を抱いている。
からだの方で黙々と営まれている「健康維持」に関するいのちの営み。それが「増進」に繋がるには、「からだ」だけでは実現ができないのではないかといった実感がある。では、これを増進させていくものはなにか。
今回のフォーラムを経て、現時点でのひとつのイメージは「からだ」と「わたし」との信頼関係がそこには必要なのではないかということだ。
「からだ」だけでも何か、一味足りない。
「わたし」という存在がまったくいらないわけでもない。
からだからいただく情報を受け取って、わたしの生き方が創造される。
そんな循環のなか、からだとわたしとの関係性が創られ、
健康維持増進へとつながっていく。
今回の春季フォーラム、そして、現在三浦理事長が展開されている新重心理論から、人間の生き方の可能性が感じられ、次回の秋季フォーラムへと繋がっていくように感じています。
一週間のお付き合いありがとうございました。
明日より友松実行委員にバトンを渡します。
よろしくお願いします。