「ゆっくり」には、時間的に感じられる間(マ)と空間的に感じられる間(マ)がある。
確かにそう感じたできごとがありました。
先日、野菜を洗浄し、選別する作業の機会をいただいたのですが、流れ作業の速度はけっこう速く、とても「ゆっくり」とはいえないものでした。
ただ、初めての作業であるにもかかわらず、周りがよく見えていたり、流れを断ち切らずにタイミングよく動けていたり、「速い」けれども、余裕をもって対応できている感覚があったんです。
そして、からだのどこか一部に負荷がかかっているという感じや疲労感が無かったことが、なにより不思議でした。
この感じをひとことで言い表すなら、「摩擦がない」。
「からだ」の外側にある「くうかん」と、内側にある「くうかん」との間に摩擦がない。
「からだ」と「じぶん」との間に摩擦がない。
作業場にいた人たちとの間に摩擦がない。
どうしてこういうことが起こるのか、改めて考えてみると、思考につながる「自分の意識・無意識」が消えて、automaticに「からだの意識・無意識」が対応してくれていたとおもうんです。
決して「からだ」にとって自然とはいえないような速さや、「からだ」に無理がかかるような作業でも、「からだ」がその場の「くうかん」を感じとって、「からだ」の「くうかん」を消耗しないように表現してくれていた。
そうすると、目に見える動きは速くても、目に見えない「ながれ」は「ゆっくり」で、時間的ではない空間的な広がりを「ゆっくり」と感覚意識できる間(マ)にあったのだとおもいます。
このようなことをどうキャッチしていくかが、健康維持増進につながっていくとおもうのですが、続きは明日にします。