東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

からだ

今週は、播州と摂津の国境に位置する旧有馬郡であった三田盆地より発信しています。

いつだったか、中谷実行委員との会話の中で、エーテル体という「からだ」についての話題になった。これはブログにはもってこいの内容であると思ったので、「お題」をいただくことにした。今日から一週間、日替わりで「七つのからだ」について述べてみようと思う。
「からだ」を広義の意味合いで見た場合、古代インドの哲学者は個人の「からだ」というものを、幾重にも重なり合っている層から成るものと考えていたのである。まず、肉体がいちばん外側の層にあり、内部へ内部へと重なり合うことによって、個人的な人間存在ができ上がっていると考えたのだ。からだというのは人間が外から内へと重なり合った七つの要素で構成されているという構想である。
こういったからだの要素のなかで、あるものは現代の精神分析学や超心理学などによって受け入れられているものもあるが、近代科学にとって、こういう人間構造論の理解と評価は一様ではない。しかし、今日の心理学も人間は多様な要素の複雑な重なり合いから成っていると考えている点は合致している。また、人間のさまざまな可能性はこのからだの複合的構造に根差しているといっても差しつかえはない。
「七つのからだ」とは、はじめに「肉体」がいちばん外側にあり、二番目に「エーテル体」、三番目に「アストラル体」、四番目に「メンタル体」、五番目に「スピリチュアル体」、六番目に「コスモス体」、そして七番目の「ニルヴァーナ体」へと続く。七つのからだを説明するには、七つのからだに共通している生命エネルギーという側面から眺めてみようと思う。
生命エネルギーというのはインドで「プラーナ」と呼んでいる。我々のなかにあるエネルギーのこと、生命のことである。まず、一番目のからだ、「肉体」に関して言うと、肉体におけるエネルギーは呼吸というかたちで顕われる。呼吸には、入る息と出る息があるが、双方対立している。「呼吸」と書くと、出息と入息はひとつのものと見なされているが、呼吸には入息と出息という二つの極性がある。
エネルギーにはすべて両極性があり、すべて二つの対立する極において存在している。他のかたちでは存在することができない。その対極どうしの緊張と調和によってエネルギーが生じる。入息は出息に相反するものであり、出息は入息と正反対のものである。ほんの一瞬であるが、入息は誕生、出息は死のようなものに見える。一瞬のうちに二つの正反対の生と死が起こっている。肉体ではこのようなかたちで生命エネルギーが顕われている。この生命エネルギーは生まれて八十年ぐらい後には死ぬことになる。入息と出息から始まり、昼と夜という同じような現象のより大きいものが生と死である。
この息というのはそれ自体がプラーナといわれる生命エネルギーではない。プラーナというのは内へ入ることと外へ出ることを言うのであって、その両極性によって顕われる生命エネルギーのことである。息を吸い込むというエネルギーそのものがプラーナであり、息そのものはプラーナではない。息を吸い、息を吐いているそのエネルギーこそプラーナなのである。七つのからだすべてにこういったプロセスがある。

操体の教義の中心に、からだと生命に関して「息・食・動・想」というそれぞれに天然の法則があり、「知らないと間違ってしまう、よく勉強すること」とは、故橋本敬三師が諭された言葉である。そして「息」は操体臨床における動診、操法にあっても息を通すことの重要さが説かれているところだ。
明日につづく


日下和夫


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