現在の操体のカラダを動かす・使うこと、また命に対しての捉え方は「報い」から「救い」に変化してきているように感じる。
例えば身体運動の法則における作法にしても利き手に応じた作法であるのだが、この利き手というのは天性のものではない。
物心を付いた時に「使い易かった」というだけであって産まれもっての利き手は存在せず、それはこのシャバに産まれてからの「癖」であり、現象であり、「報い」というように捉えることが出来る。
このように「報い」からの捉え方では同じ人間なのに個体差や感覚差というのが生じてしまう。
では「救い」の観点で利き手を見ていくとどうなるかというと、同じ事を万人がやっても皆が同じ体感が出来る「絶対性」がそこには在る。
つまり右利きも左利きも存在ないのだと言える。
私達が今まで学んできたことは呼吸にしても、カラダを動かすことにおいても、食事にしてもカラダに聞きわけることで「快」という一つの大きなベクトル(目的)にその指標向けてきたのだが、そこには右利き、左利きという優位性があり、相対性が生じる。
それはこの世に生を授かってから現在に至るまで己が育んできたカラダ、意識が大きく関与している。
しかしこれを「救い」という観点から見ると利き手というのは無く、皆が同じカラダの使い方・動かし方をすることが本来の人間本来の「ありのまま」になる。
この人間の「ありのまま」の要求を満たしていくことこそがイノチが悦ぶことであり、私達臨床家だけでなく生ある者全員がカラダを使わせて頂いていることへの責任なのだと思う。