治療とは一つのエネルギー現象である。
そして、エネルギーについては、それがどんなタイプのエネルギーであってもひとつ極めて基本的な事柄を理解しておかなければならない。 これは理解されるべき根本的な法則である。
このエネルギーというものは二元的な両極性の間を動いていく。 それがエネルギーの唯一の動き方である。 このほかの動き方などエネルギーにはありえない。 それは二元対立する両極端の間を動くことになる。 そんなエネルギーがダイナミックになるには、その対立する極が必要とされる。
これはちょうど電気というものが陽子と電子とをもって働くのと同じことである。 もし陰の極である電子しかなかったら、電気は起こらない。 もし陽の極である陽子しかなかったら、やはり電気は起こらない。 エネルギーは、この電気のように必ず両極が必要になる。 電子の移動によってその両方の極が出あうとき、電気が創りだされるのである。 そのときには、エネルギーのスパーク現象が起こる。
これら二つの両極端の間にバランスを生み出してそのバランスの内にとどまることによって電気が創られるのである。 しかし、このバランスは線状の努力によって達成できるものではない。 そして、臨床もまたこの同じエネルギーが、両極の間においてバランスをとりながら動いているのを見ることができる。
この両極性というのは、臨床にとって非常に意味深いことである。 何故なら臨床を行なう人の頭は極めて論理的だが、臨床そのものはシンプルで弁証法的なものだからだ。 頭の思考は線の上を動くという意味の線状的であり、実際の臨床はと言うと、正反対のものの間を動く対極的なものだ。 電気の電子と陽子のように、それは陰極と陽極の間をジグザグに動きながら、対極を利用するものである。
これこそ 「無努力の努力」 というあの禅の手法の意味することだ。 禅では矛盾した表現をよく使う。 無努力の努力、門なき門、道なき道・・・・・・。 禅は矛盾語を使うことによって即座に我々にものごとのプロセスは弁証法的であって線状ではないということを暗示する。
反対のものは否定されるのではなく、吸収されるべきものであり、対極は取り残されるべきものではない。 それは使われなければならないものであって、それが取り残されたら、臨床家にとってそれはとても重荷になる。 使われなかったら、臨床家は多くを取り逃がすことになるだろう。 そのエネルギーは転換され、利用されうるべきものだ。
そうなったら、それを使うことになったら、臨床家はより活気を帯び、より生き生きとしてくる。 だから反対のものは必ず吸収されなければならない。 そうなってはじめてプロセスは弁証法的になる。 これは臨床家にとって、両極性というバランス感覚の上手い下手に尽きるのである。
2016年春季フォーラムは4月29日(金)開催です。
テーマは「上手い下手について」