普段ほとんどラジオを聴く習慣がないけれど、
連日のテレビを介しての過情報に少し疲れたところで、
試しにラジオのチューナーをひねっている自分がいた。
波長の良く通る局にとめたところで
作業をしながら、しばし耳をかたむけていると、
それはちょうどシンガーソングライターの平松愛理さんが
ゲストでトークしているラジオだった。
最近どんな生活を送っているかという話で、
とにかく最近よく「書いている」というようなことを話されていた。
昔感動したことを思い出してみてそのことをノートに書いたり、
こういった状況のなかで今感じている事や頭の中にあることなども、
とりあえず書き出すようにしている、というような話だったと思う。
普段から「日誌」を書くことにはこれでも一目をおいていた。
なにせうちの師匠がとにかく日誌を欠かさず書く人だし、
きっとそこには何かあるだろうと踏んでいた。
自分でも時間を見つけてメモ書きでもいいから書く
ということは生活の中に取り入れていた。
ラジオでそんな平松さんの近況を聞いていて、
なんかその気持ちすごくわかる気がする、とただその時は思っていたけれど、
今そのことを思うと、そのプロセスは何かを「感じること」を思い出すこと
に繋がっていたのではないかとも思えた。
日誌を書くことはある意味で自分自身と向き合っているようなところもあり、
それは自分自身が何かを感じていることに支えられて、成立する営みでもある。
「何かを感じていてもいいんだ」
という当たり前のことではあるけれども、
そういった目に見えない動きの在り様を
自分で肯定していることに繋がっていると思う。