東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

車の中の物語

こんばんは、小代田です。みなさん今日はどんな一日でしたか?
今日は車で職場から帰ってきました。私はいつも仕事で車を運転している時間が長いのですが、この運転時間、無意識に色々なことを考えていることが多い気がします。今日も職場から自宅までの一時間半の時間、気がつくと今回のテーマのことを考えていました。運転中の私の頭にはいつものように流れる雲のように感覚が言葉として浮かんでは消え、浮かんでは消えて行きます。それは無秩序な連想ゲームのように。
セックス…性への目覚め、恋、興味、好奇心、所有、愛、生殖、歓び、悲しみ、依存、刺激、未来、過去、共有、共感、歓び、くつろぎ、幸福感、信頼、コミュニケーション、交感、欲望、欲情、生、若さへの執着、エネルギー…

そんな取り留めのない連想を繰り返しているうちに「セックスをする時、何かを考えるだろうか。操体のことを考えるだろうか、快や不快を考えるだろうか」ふとそんなことが頭に浮かんだ。
静かな頭に「きっと私はその時何も考えていない」という言葉が浮かんだ。きっと私はただ相手と向き合い、相手を感じている。
感じる、それは快楽を感じるとかいうそれとは違う、それはきっと空っぽになるということに近いのかもしれない。空っぽになるというか、自分が形をなくす。相手に合わせ形をかえ、受け入れ、反応する。そこには快も不快もない、すべての感覚は言葉をいう形をなくす。音はあるけれどなく、眼は見えるのだけど見えない、すべての感覚はきっと存在しているのだけど名前をなくしている。からだもそう。そのからだは確かに存在しているのだけど、私という存在はからだとは別に在り、それは形をもたたない。ただ静かに満ち足りた気持ちでそこにいる。からだの歓びとは別の喜びがそこにある。頭寒足熱、ちょっと違うけどそんな感じのような気がする。
そして静かな連想ゲームの最後に浮かんだこと、それは「セックスは言葉(形)を持たない」ということだ。それは言いかえると論じることが難しいということ。私達は誰に教わるわけでもないのにそれが必要だと気がつくと知っていた。
もし人がそれに言葉を必要とする時、それは言葉にする(理由を必要とする)時なのかもしれない。
話は変わるけれど今こうしてパソコンに向かいながら、そう考えると「セックスって操体みたい」なんて思ったりする。
一緒にしたらいけないかな。でも私にとっては形は違うけど、どちらもいつも共にいる自分から解放される。生きているために頑張って身に付けた言葉や知識、常識、決り、形、そんなものからからだもこころも抜け出す。すべての感覚はきっとそこにあるのだけど、もうそれは形容詞を必要としない。ただそこにある、それだけで良いのだ。そこでは全てが赦されている。そしてそこには向き合う相手との営みを感じているからだと、それとは別に静かで穏やかで素直な私がいる。そしてその二つに共通するもう一つのこと、それはその相手は愛する人、もしくは信頼する(できる)人であるということ。

では、今日はこの辺りで。おやすみなさい。


小代田綾