東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

見えるはずのもの

子供の頃、なりたかった職業ってありますよね。
「パイロット」とか「ウルトラマン」とか「歌手」とか「バレリーナ」とか。
もっとも今の子供たちは平気で「公務員」とか言うらしいですが。

僕が子供の頃なりたかったのは「黄八丈の糸を染める人」でした。八丈島に黄八丈という織物があります。その糸を染める仕事がしたかったです。小さい頃TVでやっていたのを観たのです。
小さいおばあさんが出ていて、一人で糸を染めていました。後継者がいらっしゃらないのですね。そのおばあさんもお父さんから習ったそうです。
黄八丈には黄色、鳶色、黒の三色がありまして、それぞれ違う染め方で染められます。確か黒だったと思うのですが、染めるのに泥の他に塩水を使うので、その塩水が大きな瓶の中に入れてある。
その塩加減で発色が決まるらしいのですが、その按配をおばあさんはお父さんから叩き込まれたそうです。おばあさんは瓶の中の塩水にちょっと指を入れてぺろっと舐めてその塩加減をみる、これでよしとうなずく。
もうそれを観て、ガキの頃の僕は感動しまして、大きくなったらあれをしようと思いました。
あの頃八丈島に行くご縁があれば本当に職人になってたんじゃないかと思いますが、結局一度も行った事はありません。いつか行ってみたいと思っています。



志村ふくみさんという染織家の方がおられます。染織家として人間国宝にもなられた方ですが文章家としてもいくつか賞を受賞されておられます。

「自然の諸現象を注意深く見つめれば、自然はおのずから、その秘密を打ち明けてくれる。それは秘密などというものではなく、自分が何かに心をうばわれ、見落としている現象である。そのとき、心の篩(ふるい)の目が荒くて、重要なものを見落としてしまっているが、ふと気がついて、熟視し、思いをこらすとき、急速に篩の目が密になる。条理(きめ)こまやかになるということは、自然の中に瀰漫(びまん)している無数の粒子が、ある秩序のもとに統合されてゆくことであり、内なる光と外界からの光とが相呼応して、見えてくることでもあるように思われる。(中略)光が現世界に入りさまざまな状況に出会うときに示す多様な表情を、色彩としてとらえたゲーテは「色彩は光の行為であり、受苦である」といった。この言葉に出会ったとき、私は永年の謎が一瞬にして解けた思いがした。光は屈折し、別離し、さまざまな色彩としてこの世に宿る。植物から色が抽出され、媒染されるのも、人間がさまざまな事象に出会い、苦しみを受け、自身の色に染めあげられてゆくのも、根源は一つであり、光の旅ではないだろうか。(後略)」(志村ふくみ『色を奏でる」より「光の旅」)

三浦寛先生が最近『色」と『光」のお話しをよくされますが、聴かせていただいて、どなたのものか分からない、うろ覚えだったこの文章を思い出しました。今回調べて志村さんの文章だと分かったのですが、ある境地に至った人というのは通じるものがあるんだな、と思いました。三浦寛先生は「篩の目を養う」と言われていましたが、見えるはずのものが見える、というシンプルなことも自然が相手なだけに、こちらの生き方、在り方が問われてしまうんだと思います。「生き方を問われている時、受け入れられる心を持っているのか、素直な心を養っていく心があるのかという品性が重要になる」という様なことを仰っておられました。人は往々にして間違う、それを素直に観ようとすることで自然に正してもらう。そうやって学び続けていくということでしょうか。僕は今まで自然の法則を見出すのには特別な資質が必要だと思っていました。三浦寛先生の姿を間近で観させて頂いていると、その資質とはどれだけそれを求める気持ちがあるのか、ということじゃないかなと思っています。


一週間お付き合いくださってありがとうございました。



色を奏でる (ちくま文庫)

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