人体にも神隠しが多く潜んでいる。
なぜ病気になると体が歪むのか?
なぜ多くの症状・疾患は体の奥深くに隠れるのか?
なぜ本人の意識が行き届かない箇所に歪みが生じるのか?
こういった多くの謎は神が人間に体を与えた意味、つまり神隠しにも繋がってくる。
私達の体は神様からの借り物であるならば、体を使うことにおいて粗末に使ってはならないということ。
病気が本人の意識の行き届かない所で進行するのは、神が「自分の体を愛しなさい」、「もっと意識を向けなさい」というメッセージを発信しているように思える。
それは操体でいう「自己責任」でもあり、それを「やるか、やらないか」は本人次第なのである。
こういった操体の哲学には愛が問われているなと思う。
愛が無ければ、操体を学ぶことは出来ないし、自分を愛することも出来ない。ましてや人の体を診ることも出来ない。
臨床家にとって人の体を診るということは、こういった神からのメッセージを忠実に受け取り、人体に隠された謎である神隠しを紐解いていくことなのだろう。
先週の三浦先生がブログで書かれていた「火鏡」と「水鏡」は正に人体の愛の結晶である。
患者の生き方、愛に触れることが出来る体の部位であり、そこには「救いと報い」が現象として忠実に現れている。
そういった神が示してくれている体の部位を愛を持って触れること。そして「神明かし」することが臨床家の務めなのだと思う。