橋本敬三先生の著書「からだの設計にミスはない」のP77に「人間が本当の自然法則を知らされたとしてもそれをとるか、とらないか、選ぶか、捨てるかは全く本人の自由である」と書かれています。操体を学び始めて間もない時にこの文を読んだのだが特に「とるか、とらぬか」というフレーズが当時の私の心に深く印象に残りましたので本日のテーマにしたいと思います。
「とるか、とらぬか」と言われてみるとこれまでの人生のなかで幾度となくこの選択を迫られた時があったと思います。それは人が生きている以上、常にこの選択権が存在するのですがわたしの言葉で言わせてもらうとこの選択は「命の選択」と「心の選択」と大きく二つに分けられます。「命の選択」とは自然法則等の命が要求している選択であり、「心の選択」とは生活の為の選択をいいます。私たちは日常生活においてほとんどが「心の選択」で「とるか、とらぬか」の選択をしているのです。しかし人間の本来の悲願とは健康に生きる事であるので「命の選択」は確実に取ったほうが良いと思います。
このような考えを持ったことで私は「もったいない」という意識が芽生え始め、確実にとっておいた方が良い「自然法則」をとらないのはやはりもったいないのである。この世に生を授かりこの体を使わせてもらっているので知らなかったではすまされないのです。そういう私も3、4年前までは無責任に体を使っていたのですが今になって思うのが人は五体満足で日常生活を送れている間はこの法則の有難さが分からないのです。そして心の中に「めんどくさい」という欲の心が少なかれ存在します。これがあるので人は本当に困った時でないとこれを選択しないのだと思います。この「めんどくさい」という言葉は人間の無限の可能性を閉ざしてしまう厄介な言葉であり、私も数えきれない程、痛い目に遭ったのを覚えています。しかし、最近になって気付いた事があり、それは先日にもお話しさせて頂いた「意識」を使う事でこの「めんどくさい」が打ち消されていくことです。最近の私はどんな小さな事でもまず「やれ!」という意識で生活している。あとまわしにすると「めんどくさい」が頭に侵入してくるのでとりあえず頭で考えるよりも先に体を先に動かしています。
少し寄り道をしてしまいましたが人は神様から無限の可能性を与えられた事で「無限の選択」が出来るのですがそこには最低限の責任があるのです。その責任とは体を「使わせてもらっている」という責任です。無責任に体を使い悪くなったから医者に頼るでは都合が良すぎますよね!最低限の責任を全うするために橋本敬三先生は自然法則(息・食・動・想)を説いているのです。この法則を「取るか、取らぬか」は己の命の責任を全うするか、しないかとも言えるでしょう。