「感覚する」ということを怠ることは
自己責任を放棄していることになります。
自分の行為が果たしてからだの要求に適っていることなのか…
橋本先生は
「治すことまで関与するな」とおっしゃっていましたが、
「きもちよさをききわけさせればいいんだ。きもちよさで
治るんだからな」ともおっしゃっていました。
きもちよさをききわけるプロセス。
本当にその行為がからだにとってきもちいいものなのか、
からだが要求しているきもちよさなのか。
「感覚する」ということは自分自身のからだへの
礼節でもあります。
からだの個々の細胞が健康を維持するために
それぞれの役目を日々おさめているように、
私たちも「感覚する」ということを「おさめる」責任が
あります。
橋本先生が
「これからは動きよりも感覚だ」とおっしゃってから
操体も随分変化(進化)しました。
操体にはもともと自己最小限責任生活必須条件(息、食、動、想)
の営みが崩れると「生活の歪み」から「ボディの歪み」につながり、
不健康に傾くという自己責任におけるプロセスがあります。
「動きから感覚」に変化(進化)したことで
「感覚する」というプロセスを自己責任において
「おさめる」必要性が一層増してきたように思います。