東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

 特別寄稿

来年秋のフォーラムでの講義をお願いしている、平田紀子先生、川崎隆章氏からフォーラムの感想を頂きました。ありがとうございます。



ご招待頂きありがとうございます。都合で少しのコマしか受講できず残念でしたが、新鮮な体験でした。

稲翠先生との対談は、音大で教鞭をとりまた寄席芸人だった夫のお弟子たちと関る自分にとっても興味深いものでした。もっとお話を伺いたかったです。

「触れない臨床」は初めて拝見しましたが、体験してみたくなりました。

三浦先生始め臨床家の方々の姿勢やたたずまいから、凛とした美しさがピシッと感じられ、改めて操体に興味を持ちました。

ありがとうございました。

平田紀子



「快と楽・・・天が与えた二つの存在への考察」 川崎隆章

 このたびは、東京操体フォーラムへご招待頂き、深くその内容に触れさせていただくことができ、大変に嬉しく思っています。ほんとうにありがとうございます。

 今回の最大の収穫は「快と楽」についての問題が綺麗に解けたことです。
 フォーラムでは、多くの講演者が快と楽の違いについて説明し、多くの参加者が共感を表明し、休憩時間中もその話題がよく出ていました。以下、フォーラム参加の二日間、頭の中をめぐっていたことを書きだします。

 ごく簡略にいえば「楽」は客体的な心地よさ、「快」は主体的な心地よさである、と、私は理解しました。三浦先生がもっと直接的に「魂の喜びそのものだ」とおっしゃっていたのが強く印象に残っています。
 南画家の田中稲翠先生は、「快」と「楽」の違いを甲骨文字にさかのぼって鮮やかに解いて下さいました。操体の世界で発せられた問題が文字学の世界で解かれるというのは、実に愉快なことです。「楽」は人が両手で神事で鈴を振る姿、「快」は利き手で刀を勢いよく振り下ろす時の心持ち・・・何千年も前の人が、現代のわれわれに答えを与えてくれたのであるとすれば、その媒介者である稲翠先生は古代からのメッセンジャーだということになります。東京操体フォーラムではこんな飛躍的な出来事が、次々と起きてきました。これぞまさに本物のフォーラム(広場)ですね。

 また、快と楽の使い分けについても、答えを発見することができました。
 武術家の島津先生が見せてくださったいくつかの実技が、まさにそれでした。痛みを取る、あるいは筋肉の緊張を取るという技を目の前で見せてくださったが、実に1分とかからない妙技で、実際、目の前で明らかに結果が出るというものでした。
 先生のお話を伺った限りでは、これらの作用は(的確な場所に痛烈な痛みを与える、などの)刺激によって身体が表現するさまざまな「反応」を、刺激によって積極的に引き出すものであり、これは「楽」の世界ではありませんか。
 先生は「われわれ武術家はは気が短いから」とおっしゃいますが、戦時において短期解決で治療行為をすることが、そもそも求められているのですから、これは理にかなっている。いかにも戦いの現場を居思わせる「徹した楽」だと思いました。
 一方、施術をしている島津先生のほうには「快」がありました。冗談まじりのように「術をかけて、相手が痛がるのを見るのが面白くて」とおっしゃっていましたが、実はこれは稲翠先生が見せてくださった「快」という字の本質ではありませんか(道具こそ刀ではありませんが)。つまり、相手が楽になることを喜ぶ・・・なんてセンチメンタルな感情が快を生みだしているのではなく、その姿勢をとり、その動きで「究めた動作(=術)」を行うこと「自体」が快なのです。

 これは、戦場において戦いを自発的に鼓舞することにもつながるのではないでしょうか。
 島津先生が「活殺」という言葉をお使いになっていましたが、活かすも殺すも、その「行為自体の快(=鮮やかさ、正確さ、繊細さ)」においては共通だということです。殺すほどの正確さと繊細さを持って命を活かす(逆もまた真なり)。「殺す技術」と「活かす技術」に区別をもたない「人間の究極の動作哲学」・・・これが武術の本質なのではないかと考えました。

 ところで、休憩時間の会話を聞いていて「楽」を「快」より下位のものとして考えている人がいた事に小さな違和感を覚えました。森羅万象に存在の必然性・必要性があるとするならば、「楽」は楽の必要性があり、「快」と同じほどの崇高な価値があるはずだからです。
 私が「楽」の存在価値をはっきり名言するのには理由があります。
 三浦先生の二日目の実技で、ついに「触れない操体」が公開されました。究極の「命の喜び(=快)」を示現する技術であり、操体の究極の目的に迫るものだと思いました。しかし、私はこれを、一日目の実技で見せてくださった「第一・第二分析」とセットで理解しなければならないと思うのです。単に「第一分析、第二分析」が発展して最新の形になっただけではなく、第一分析、第二分析の存在や役割が変わり、かつては「操体」そのものをあらわしていたものが、「操体の真髄へ導く手段」として再定義されたのではないかと理解しました。なかには(いろんな事情から)自発的になることを拒絶する人もいるわけで、そういう人にとって、自発性を求めない第一分析は、重要かつ不可欠な「入口」となると思うのです。これもまた「快」を示現するための「楽」なのでしょう。

 私は6月から月1〜2回のペースで三浦先生・畠山先生の講座のモデルケースをさせて頂いているのですが、いままで数回「触らない操体」を施術して頂いたことがあります。その感激と、体内・意識上で起きる劇的な世界は別途感想文として書いたとおりです。二日目の実技のあと、受術された三人が語っていた言葉はまさに私にも起きたことで、共感を覚えました。
 ところが「触らない操体」は、極限まで主体的に快を得る事が求められるだけあって、深さを求めると、それ相応の自発力と体力を要します。実際に深く受療すると軽い疲れが残るほどです(軽いスポーツの跡のような疲れです)。また、一度その深さを味わうと、次に受療する時には相応の覚悟をしてしまいます。試合や歌うの前の気構えに似た、ちょっとしたモチベーションを要する小さなハードルです。

 あれは7月下旬のこと。無理な仕事で体がボロボロになった状態で三浦先生の施術を受ける事がありました。正直いって大変疲れており、足取りもおぼつかないほどでした。「触らない施術」に対する期待はあったが、そこまで自発的になれる気力もありませんでした。
 三浦先生は、私のそんな状態を一瞥で見抜いてくださったようで、その時は横になって背中の一点に指をおいてくださいました。この時の「触ってもらった」という安心感。私はその指の感覚を確認するや否や深い眠りについてしまったのです。数十分後、目覚めたとき先生はすでに室内にはおらず、すべての施術は私が深い眠りについている間に行われたようです。畠山先生によれば、その間、背中に指を置いた以外は何も目立ったことはされていなかったそうですが、この時は私の呼吸器系にアクセスされたようで、ある瞬間から呼吸音やいびきの質が変わった、とのこと。この日、私は生まれ変わったように元気に帰ることができました。
 フォーラムで「快」と「楽」の話が繰り返し出るにつけ、私はこのときの印象深い体験を思い出すのです。
 何かを対象とした客体的な心地よさを「楽」、自発的な魂のエネルギーが生み出す主体的な心地よさを「快」とするならば、三浦先生は私が自発的な体になるよう、指を使って「楽」を与えて、補ってくださったのだと思います。
 この後も、いろんな体調、いろんな状態で三浦先生の施術を受けましたが、私がピンピンしている時はまさに「触らず」の極致で術に臨み、疲れやケガで心が弱っていれば、触って下さいます。

 操体の本質は、自発的なエネルギー(=魂の喜び)で自ら「快」を生み、味わうことにあるのだと思うのですが、人間が社会的動物である以上、肉体や精神にはさまざまな「都合」が生じます(本当はそこまで自発的であるべきなのでしょうが)。そこを補う時にこそ、必要最小限の「楽」が活かされるべきなのだと思います。
 島津先生のお話が思い出されます。道場で子供が「歯が痛い」というので、術を使って痛みを止めてやり「よーし、医者に行ってこーい!」と送り出してやった、というエピソードです。まさにこれこそ「楽」を上手に活かした方法だと思いました。その子は痛みを我慢せず、前向きに治療に臨むことができたのです。これは、私が感じた三浦先生の「指」と相違ないと思います。私は先生の指で一時的な苦痛から逃れることができ(眠ってしまうことで)落ち着いて「体にゆだねる」ことができたのです。

 また、稲翠先生のお話の中、手慣れてしまった創作に飽きてきた時、御自分の毛髪を用いて、まったく考え方の違う筆を作られたというエピソードが紹介されましたが、これだって、下り坂のモチベーションに活力を与えるため、道具を通じて一種の「楽」を求められたと解釈することができます。あらゆる創作家が「方法の冒険」を求めるのは、すべからく「自らの魂を、より大きく震えさせる」ためではないでしょうか。
 三浦先生は操術の世界で、島津先生は武道の世界で、稲翠先生は芸術の世界で、皆「楽」を「快へのいざないの道具」として「活かして」いる・・・私はそんなことを発見しました。会場で、会場の外で「快」と「楽」についての話題が出るたびに、私はこんなことを確信したのでした。

 畠山先生から幾度となく、ずいぶん長い間「またフォーラムやるから是非見に来てよ」と言われていたのですが、今回参加させていただき、とてもうれしく思っています。そして、こんな凄い知の現場を今まで見逃していたことに、ちょっぴり悔悟を感じたのでありました。
 以上、未整理ながら、熱のさめぬうちに、感じたまま書いてみました。