東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

感謝

こんばんは、小代田です。皆さん今日はどんな一日でしたか?
さて、昨日は私に新たに生まれた新しい性についてお話致しましたが、今日はその続きをお話しようと思います。
操体の講習会の中で自分の無意識の動きに次第に癒され、くつろぎを感じた私ですが、初めはその動きを不思議な思いで感じていました。それはちょっと違和感のような。それは昨日もお話しましたが、自分の中に今までない感覚であり、動きだったからです。
動きに癒されるというのも不思議な感覚ですが、私は生まれて初めて「女の子(女性)らしい」という言葉を感覚として自分のからだで感じた。
「女の子らしい」という言葉。さて昔の私が毛嫌いしていたこの言葉ですが、私はあの日からその言葉の響きが嫌いでなくなりました。その日渦状波が導いた私の意識の変化は大きく、そしてその後もジワジワと効いています。
けれどその後、私はちょっと慌てて、ちょっと困りました。だって今まで自分が女性であるという事にきちんと向き合っていなかったという事に気づいてしまったからです。
では女性であるって何?女性らしいって?そう聞かれると言葉にするのは今の私には難しのですが、ただ私のからだは知っていたのでしょう。
私の無意識が教えてくれたこと、それは私は女性の性質を持っているのだということ。そしてそれを心地良く感じるのだということ。それは私の心に自己回帰の安心と喜びを教えてくれました。
「女性らしい」というその言葉は本来優しさを表していたのだと思う。だけど時代の変化と共にネガティブな性質も持つようになってしまった。特に私達の世代は「女性らしい」や「可愛らしい」は「ブリッコ」という言葉と共に嫌われ(嫌っていたのは大部分が女性だけれど)、良い大人になった今も私の仲間には暗黙の了解でそれが続いている。女子は「サバサバして格好良い」方が良いのだ。そして私の母も「女性らしい」ものを毛嫌いする一人である。学生運動の時代を過ごし、まさしく女戦士のように働く女性の一時代を築いてきた母は女性を強調するようなスタイルは嫌いだし(化粧品や宝石は除くけど)、男性に頼るのも嫌い、頼るタイプの女性も大っ嫌い。現役を退き、少し変わってきたけれど、今でも可憐でキレイな女優さんを見ると必ずテレビに向かって突っ込んでいる。
そんな環境で育った私はもしかして自分の性に対して少し罪悪感を感じていたのかもしれない。女性らしい=弱い者、なんて法則が自分の中に存在していたのかも。
小さかった頃、私は強くなって弟や母、学校などで苛められている子達を守りたかった。弱い者いじめは大っ嫌い、困っている人たちを助けたいと思った。それには強くなければ駄目だと思っていた。もっと強く、もっと強く。そして力の象徴は男性だった。なぜなら力で男性には勝てないから。私は守りたかったのだ、自分の大切な者たちを。
少し話がそれてしまったけど、渦状波を初めて受けたあの日、私は自分のからだによって解放された。私は強くなくても良いのだ。優しくあっても良いのだ、それは弱さではなく、強さなのだ。私は今力ではない強さを学び始めている。それは男性の力とは明らかに違うものではあるが、女性が託されたとても強いものであると感じている。そう、私は今それを学び始めているのだと思う。
操体を通してからだが教えてくれたこと、それに背くことは今のわたしにとっては快ではないのである。
以上、今日もあちらこちら話が飛びましたがこれで今日は終わりにしたいと思います。あらためて女性として生を受けたことに感謝している。
皆さん今日もお付き合い頂きありがとうございました。明日も皆さんにとって豊かな日でありますように。


小代田綾