東京操体フォーラム 実行委員ブログ

 操体のプロ、東京操体フォーラム実行委員によるリレーブログ

感じる

このたびの東日本巨大地震被災された方に対し、何とお慰めしてよいか言葉もありません。被害も甚大のようですが、ご安否のほど心もとなく、たいへん憂慮しています。
不安の多い毎日でしょうが、当該地域ご一同のお力を合わせて、この苦境を乗り切られますよう心からお祈りしています。

さて、リレーブログですが、今週は日下が担当します。
今回のシリーズ・テーマは「性」について。操体では切っても切れないツールである「感じる」をタイトルに据えて「性」にアプローチしてみたいと思う。
ところで、操体で「感じる」と言えば、原始感覚を指すのであるが、「快感」となれば、SEXも同じ「快」という感覚を享受している。しかし、そもそも感覚というのは我々自身が在りのままの自然に対立しており、自分のからだが何を欲しているのか知らないでいる。自身のあるがままは何であるのか、自分のからだの真摯な欲求が何であるのかを知らない。そして、その時の我々は、まったく真摯とは遠い欲求を追い続けることになる。何故なら、「感じる心」だけが、本当の欲求が何であるのかの感覚と方向を与えることができるからである。だからこそ操体では「感じる」を媒体に使っているのだ。もし感じる心が抑圧されているとしたら、我々は象徴的な欲求を創り出す。たとえば、アルコールや喫煙それに砂糖の入った甘いもので常習性のあるものを自分自身に詰め込んでしまう。それなのに充たされた感覚を決して持つことができない。
本当の欲求というのは「愛」に対してであって、酒やタバコや甘いものに対してではないのだ。この愛というものは、生まれてすぐに母親の「母性愛」に包まれることから始まる。そして次に「同性愛」の時期に入る。男の子は男の子どうし、女の子は女の子どうしで遊んでいるのが自然だ。英才教育と称して、習い事や塾通い等によって、この時期にそれが充分満たされていないと、大人になって、ホモやレズのような同性愛者になってしまう。何故なら同性愛を卒業していないから大人になってやり直さなければならないということだ。この成長が順調に進んでいったなら、「異性愛」の時期に移行し、恋とか恋愛を経験することになる。ここで、これらの経験が不充分であると、老人になっても異性への欲求がまとわりつき、俗に言う、いやらしいスケベー老人になってしまう。エロ爺が汚く見えるのはそのためだ。さらに成長してゆくと、「自然愛」に入っていける。ここまでくると、すべての生物、いや道端に転がっている石ころにさえ愛を注ぐことができるようになっていく。老人になると、植木や盆栽に興味を持つのもうなずけることだ。これは正常な人生を過ごしてきた場合での話である。
このように欲求が充たされた感覚というものが、いかに重要であるかということがよくわかる。そして原始感覚にも欲求があり、人生の始まりから終わりまで、ずっと存在していて、それが求めているのは快適感覚なのである。一方、性行為でのオーガズムは、異性愛の時期に限られており、それは快適感覚ではなく「歓喜」なのである。しかし、この快的感覚や歓喜に共通して言えることは「緊張」と「くつろぎ」があるということだ。
からだに緊張があるとき、その緊張は感覚できる。そしてその緊張が解かれたとき、そのくつろぎも感覚できる。この「くつろぐ」ということは、基本的には実存的なものである。もし我々の生への姿勢が実存的なところで緊張しているとしたら、くつろぐことなどできない。そのときは、くつろごうと努力しても、それは不可能である。実際のところ、くつろごうという試み自体がナンセンスだ。くつろごうという馬鹿げた努力は、くつろぐことを妨げる有害なものでしかない。くつろごうとすることなどできるものではない。我々にできるのはただ、「くつろいでいる」ことだけ。くつろごうとする「我」がいること自体、くつろぐことを妨げる。くつろぎとは、我という不在を意味する。それは我々の側のどんな努力もしないことによって我が不在になりうる。どんな努力も努力である限り我がいるということを強めてしまう。それはそうなって当然なのだ。
我々が何をやろうとそれはすべて我の行為になる。その行為を通して我が強められ、我がさらに「濃縮」され、我がますます「結晶」してゆく。その意味において、我々はくつろげない。我がいなくなってはじめて、くつろぎがやってくることができる。我の行為そのものが自我の一部となり、我の努力そのものが我々自身の延長となる。我がいなくなる瞬間、くつろぐことができる。我がいるということ自体が緊張なのである。我というのは緊張なしには存在することなどできない。この我こそが緊張そのものなのだ。我というのはアイアムネス、私であること、つまり社会の中に存在する私であるという意味だ。
橋本敬三師の教えに「バルの戒め」というのがあり、その中に「頑張るな」というのがある。頑張る我が邪魔だと言っているのだ。くつろぎが実存的なものだと言うとき、それが意味しているのは、操体の逆モーションと同じ理論である。つまり、くつろぎではなく、緊張を理解することにある。我々にとって緊張は理解できるが、くつろぎは理解できない。それはとても無理なことだ。我々が理解できるのは緊張だけだ。緊張とは何か、どのようにそれがあるのか、どこからやってくるのか、それはどのように存在し、どんな手段で存在しているのか。そうやって緊張というものを全体的に理解する方法に「動診」なるものがある。からだの末端からの動きを通して全身への連動のプロセスの中で「表現」というからだの理解があらわになる。そのとき、緊張が解ける瞬間がやってくる。そうしたとき、くつろいでいるのはからだばかりではない、存在全体がくつろいでいるのを体験することになる。
明日につづく


日下和夫