おはようございます。
「食」は、他の生物の生命をいただくものである。
博愛精神と優しい心を持つ人ならば、どんな生物の生命も奪う事なく、自分自身も元気で長生きする事を理想とするだろう。
個としての生命を奪うのではなく、共に生きながら、その一部を有難くいただく。
そう考えれば、植物食は倫理的観点からも最適なのではと思える。
葉っぱを分けてもらい、果樹からは実をいただき、穀類からは種をいただく。
他の生命を奪う事なく、共存、共栄をはかる。
しかし、言うは易く行うは難し。
こうあるべきだ、という理想を持っていても、生身を持ち、その動物的本能からの欲求が頭を持ち上げてくれば、それに抗う事はなかなかできない。
それを精神的な面だけに焦点を当て、精神的に弱いとか、罪悪に感じたりとか、自分を責めても仕方のない事。
精神だけで生きているわけではないのだから、からだの都合も考えてみる。
環境に適応しながら生存を保とうとするからだにききわけてみて、動物食を求めているのならば、それも現時点で生存を保つバランスだと思う。
「食」の営みのバランスも、他の「息」「動」「想」の営みとのバランスによって変化する。
その中でも「動」の営みは「食」と密接なつながりがある。
例えば、重労働でエネルギーを消費し、肉体も消耗している時は、肉食主体の「食」を求めたくなるのは、誰しも経験があると思う。
しかし、同じ重労働でも「動」を、肉体を消耗させない身体の動かし方に変えていければどうだろうか?
「息」もそれに合わせた、天地からエネルギーの素を充分にいただけるものにしていけばどうだろうか?
お腹の内部環境は当然変わってくる。
そうしたバランスの上で「想」の優しい心持を活かせば、「食」の営みもその優しい心持を映し出すようなものへと、ストレスなく変わっていくと思う。
優しい心の持ち主が、その優しさゆえにストレスを抱えるというのでは忍びない。
バランスが大切。これは、メタボや生活習慣病対策にも当てはまる事。